
クロック理論の探求
私が10MHzマスタークロックの世界に興味を持ったきっかけとなったのが、ネットワークスイッチ「UpTone Audio EtherREGEN」の導入でした。この製品の設計者の一人であるJohn Swenson氏が公開したクロックに関する論文は、多くのオーディオファイルにとって有益な、示唆に富んだ内容です。
この記事では、その論文をベースに、マスタークロックがなぜ音質に影響を与えるのか、その技術的な背景を深く掘り下げて解説します。
なお、この記事は専門的な動作原理の解説に特化しています。具体的な製品の選び方や、予算別のおすすめモデルについては、以下のページをご覧ください。

全ての基本「ジッター」と「位相ノイズ」
専門的な話に入る前に、クロックが解決しようとしている根本問題「ジッター」と「位相ノイズ」を分かりやすく定義します。
ジッターとは何か?
デジタル信号における「時間軸の揺らぎ」です。デジタルデータは、クロックが刻む正確なタイミングで処理されることで、元のアナログ波形に復元されます。このクロックのタイミングが揺らいでしまうと、データの処理タイミングもズレてしまい、音の輪郭が滲んだり、音場が混濁する原因となります。
位相ノイズ(Phase Noise)とは何か?
ジッターを周波数領域で見たものであり、クロック信号の純度を示す重要な指標です。理想的なクロック信号は一本の非常にシャープな線ですが、実際にはその線の根本にはノイズによる「裾野」が広がっています。この裾野が小さいほど位相ノイズが低く、クロック信号が純粋であることを意味します。オーディオの音質に直接影響するのは、この位相ノイズの低さです。
音質を劣化させるノイズの正体
クロック信号におけるノイズは、主に2種類に分けられます。この2つのノイズの相互作用を理解することが、クロックの品質を理解する鍵となります。
振幅ノイズ(AM)と位相ノイズ(PM)
ノイズには、信号の大きさが変動する「振幅ノイズ(AM - Amplitude Modulation)」と、前述のタイミングが揺らぐ「位相ノイズ(PM - Phase Modulation)」があります。
一般的に私たちが「ノイズ」と聞いてイメージするテープヒスなどはAMノイズの一種です。デジタルオーディオで最も重要なのはPMノイズですが、AMノイズも無視できません。なぜなら、AMノイズがPMノイズに変換されてしまうことがあるからです。
AMノイズがPMノイズに変換されるメカニズム
DACなどの機器がクロック信号を受け取る際、内部の受信回路は信号の電圧がある一定の基準値(スレッショルド電圧)を超えたか下回ったかを判断して、デジタル的な「0」と「1」のタイミングを決定します。もしクロック信号にAMノイズ(振幅の揺らぎ)が乗っていると、本来のタイミングよりも早く、あるいは遅くスレッショルド電圧を横切ってしまいます。
この「スレッショルドを横切るタイミングのズレ」が、元々は振幅の揺らぎでしかなかったAMノイズが、時間軸の揺らぎであるPMノイズ(ジッター)に変換される瞬間です。この変換の度合いは、信号波形の「傾き(スロープ)」に大きく依存します。傾きが緩やかな信号ほど、わずかな振幅の揺らぎが大きな時間差を生んでしまうのです。
設計思想の対立 ー 正弦波 vs 矩形波

この「AMからPMへの変換」という現象が、正弦波と矩形波のどちらがクロック信号として有利か、という長年の議論の核心にあります。
正弦波(サイン波)クロックの特徴
- 長所
それ自体に含まれる高周波ノイズが少なく、波形がクリーンです。また、インピーダンスの不整合による波形歪みの影響をほとんど受けません。 - 短所
波形の傾きが緩やかであるため、受信回路でのAMノイズからPMノイズへの変換が起こりやすく、AMノイズに対して非常に敏感です。
矩形波(スクエア波)クロックの特徴
- 長所
信号の立ち上がり(傾き)が非常に急なため、受信回路でのAMからPMへの変換が起こりにくいという大きなメリットがあります。 - 短所
多くの高周波成分(高調波)によってあの角張った波形が作られているため、信号自体がノイズを含んでいると言えます。また、インピーダンスの不整合や、高周波を減衰させるケーブルに非常に弱く、波形が簡単に「なまって」しまい、長所が失われがちです。
フィルターの役割
正弦波クロックとフィルターの組み合わせが有効なのは、このためです。正弦波クロックの弱点は「AMノイズに敏感なこと」ですが、Mini-Circuits社製のBLP-10.7+のような優れたバンドパスフィルターをクロックの受け手側(DACなど)の直前に入れると、10MHz以外の帯域に含まれるAMノイズを根本的に除去できます。これにより、PMノイズへの変換を大幅に抑制し、非常にクリーンなクロック信号を生成できます。

伝送の重要性 ー インピーダンスとケーブル
クロック信号の品質は、伝送路であるケーブルや、その接続方法に大きく左右されます。特に矩形波クロックの性能を最大限に引き出すには、インピーダンスとケーブルの特性を正しく理解することが不可欠です。
なぜインピーダンス整合が重要なのか
インピーダンスの不整合は、ケーブル内で信号の反射を引き起こし、波形を歪ませます。この歪みは、結果的にジッター(PMノイズ)を増加させる原因となります。
- 矩形波は、インピーダンスの不整合によって波形が大きく歪みます。 このため、クロックの出力、ケーブル、受け手側の入力まで、インピーダンス(50Ωか75Ω)を厳密に合わせる必要があります。
- 正弦波は、インピーダンスの不整合による波形歪みの影響をほとんど受けません。
クロックケーブルを選定する3つの要素
クロックケーブルの性能は、主に「インピーダンス」「シールド」「高周波特性(帯域制限)」の3つの要素で決まります。
インピーダンス(50Ω vs 75Ω)
オーディオ機器のクロック伝送では、50Ωと75Ωのどちらかが使われます。
どちらが優れているというわけではなく、機材間でマッチングが取れていることが最も重要です。
注意点として、市場には「75Ωケーブル」と表記されていながら、実際には50ΩのBNCコネクタが取り付けられている製品も多いため、確認が必要です。
シールド性能
ケーブルのシールドは、外部からのノイズ混入を防ぐ役割を持ちます。シールドの種類にはシングル、ダブル、セミリジッドなどがあり、一般的にシールド性能が高くなるほど価格も上昇します。
セミリジッドケーブルは、銅管の内部に導体を配置した構造で、100%のシールド効果を誇ります。 ただし、非常に硬く取り回しが難しいため、隣接する機器間の短い接続などに適しています。
高周波特性(帯域制限)
全ての同軸ケーブルは、周波数が高くなるにつれて信号が減衰する特性を持ちます。 10MHz自体での減衰量は非常に小さいですが、矩形波にとっては高周波特性が重要になります。
- なぜ重要か?
矩形波は、基本となる10MHzの周波数に、多数の**高周波成分(高調波)**が加わることで、あの角張った波形が作られています。 ケーブルが高周波を減衰させてしまうと、これらの高調波が失われ、矩形波の角が「丸く」なってしまいます。 - 音質への影響
波形が丸くなる(=信号の立ち上がりの傾きが緩やかになる)と、AMノイズからPMノイズ(ジッター)への変換が起こりやすくなり、結果的に音質が劣化します。 - 正弦波の場合
正弦波には高調波が含まれないため、ケーブルの高周波特性は音質にほとんど影響しません。
ケーブルの中心導体とシールドの間にある絶縁体の材質(テフロンなど)や、ケーブルの直径が、この高周波特性を決定する主な要因です。
高周波特性を重視する矩形波クロックでは、BNC端子に代わり、より高性能なSMA端子が採用されることもあります。
【コラム】GPS基準周波数発生器(GPSDO、GNSSDO)について
今回の論文とはソース元は別ですが、GPS基準周波数発生器について氏の見解です。
私が導入を検討した10MHzクロックにはオプションでGPSがありましたが、氏の意見を参考にしてOCXO単体のモデルを選びました。
これも意訳します。
GPS/GNSS基準周波数発生器について。
これは、出力周波数を正確に取得し、何年もドリフトせずに、その周波数を維持する方法です。
この極めて安定した周波数は、デジタルオーディオに必要なものではありません。
私たちは、極めて低い位相ノイズに興味があるのです。OCXOは非常に低い位相ノイズを持つことができます(すべてがそうではありません)。GPSは、グランドと電源にノイズを加えるだけで、OCXOの位相ノイズを悪化させます。
ですから、デジタル・オーディオの場合、GPSDOは、同じOCXO単体よりも位相ノイズが悪くなります。
中略
同じOCXOを搭載したボックスとGPSDOを搭載したボックスがある場合、OCXOだけのボックスの方が確実に良い音を出すでしょう。
まとめ
この記事では、マスタークロックの音質への影響について、その技術的な背景を解説しました。
- ジッターと位相ノイズが音質劣化の根本原因です。
- 正弦波はAMノイズに敏感ですが、伝送が容易。矩形波はAMノイズには強いですが、伝送がデリケートです。
- インピーダンス整合は、特に矩形波の伝送においてジッターを低減するために重要です。
- 一般的には、正弦波クロックと適切なフィルターの組み合わせが、低コストで安定した高い性能を得やすい推奨構成です。
これらの理論を理解した上で、ご自身のシステムに最適なクロックを選ぶことが、デジタルオーディオの音質をもう一段階引き上げる鍵となります。
具体的な製品選びはこちら

参考文献: Considerations regarding 10MHz external reference clocks (by John R. Swenson, UpTone Audio)
本記事で解説した内容は、主に上記の論文を参考に、私自身の解釈を加えて構成しました。より深く原文を読み解きたい方は、ぜひご参照ください。
コメント
コメント一覧 (2件)
コメントありがとうございます。
この論文の主旨はそういうことです。
正弦波であれば、インピーダンスマッチングはそれほど重要ではないということなので、ケーブルやフィルターのミスマッチは大きな問題にはならないと主張しています。
私は機器もフィルターも、ケーブルも50Ω製品で統一しています。
何をしても音が変わるのがオーディオなので、合わせられるのであれば、その方が間違いはないと思います。
オーディオのマスタークロックについて色々調べている時にここに辿り着きました。
非常に興味深い内容で勉強になりました。
疑問なのですが、10mhzの正弦波であれば75Ωのマスタークロックから50ΩのマスタークロックINある機材に繋いでも余り影響無いと言うでしょうか?
さらにその際のケーブルは75Ω又は50Ωでも余り影響が無く、紹介されているノイズフィルターはどちらを選択しても余り影響が無いと言う事でしょうか?