スイスのレーベル「TUDOR」からリリースされた、アンドレイ・ルチシュグによるバッハの無伴奏。バラでリリースされた全集の中の1枚。教育者としての顔も持つ彼の、虚飾を排した実直な音楽作りと、ユニークな歴史的解釈が刻まれた貴重な記録です。
Andrej Lutschg - Bach: Sonata No. 3, Partita No. 3
TUDOR - 7301

アンドレイ・ルチシュグ (Andrej Lutschg) は、残念ながら日本語での情報は極めて少なく、その名は広く知られてはいません。調べてみると、彼が単なる演奏家ではなく、母国スイスのチューリッヒ音楽アカデミー(現在のチューリッヒ芸術大学)で教鞭をとっていた教育者でだったことがわかりました。
「録音の質」について。これは非常にクリアで、脚色の少ないサウンドです。ヴァイオリンの直接音が主体で、ホールの残響は控えめ。マイクを近めに設置したかのような、強いダイレクト感が特徴です。そのため、聴き手によっては「もう少し豊かな響きが欲しい」と感じるかもしれません。ルチシュグの演奏スタイルと合致しています。
演奏は、一言でいえば「真摯」です。派手な演出や技巧の誇示とは無縁で、ひたすらに楽譜と向き合う求道的な姿勢が貫かれています。
興味深いのは、彼のバッハ解釈です。1970年代初頭の批評によれば、ルチシュグは音楽学者エルヴィン・ヤコビ (Erwin Jacobi) が提唱した歴史的奏法、「重音をアルペジオで、それも上向きに弾く」というアプローチを実践していたそうです。この独特の奏法は、現代の、例えばナタン・ミルシテインやヘンリク・シェリングといった巨匠たちの演奏様式とも一線を画すものです。
この奏法のためか、現代の技巧派の演奏に聴き慣れた耳には、細部の描写がやや大らかで、精緻さに欠けると感じられるかもしれません。
このバッハは、一流の技巧が火花を散らすような華麗な名盤とは対極にあるかもしれません。しかし、ここには教育者としての知性と、歴史的奏法を探求する真摯な音楽家の姿が確かに刻まれています。
クリアでダイレクトな録音は、その実直な音楽性を余すところなく捉えています。モダンな超絶技巧とは異なる、歴史的探究心に裏打ちされた飾り気のないバッハです。
私が探した限り、CDのリリースは見つけられませんでした。
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